1942年4月18日ドーリットル中佐に率いられた16機のB‐25爆撃機が本土上空を駆け抜けて以来しばらく中断していたアメリカ軍による本土空襲は、中国大陸を発進基地としたB‐29により1944年(昭和19年)6月、再び開始されました。特に1945年6月沖縄戦の終了以降、日本本土上空にはほぼ毎日アメリカ軍機が飛来していました。機種もB‐29だけではなく、B‐24、B‐25等の爆撃機、A‐26、A‐20等の攻撃機、P‐51、P‐47さらにはP‐38戦闘機等ありとあらゆる航空機が日本の空を覆いました。加えて、海軍の艦上機、哨戒爆撃機等も空襲を行うなど、日本は完全に制空権を失って降伏となりました。アメリカ軍の空襲は、当時は日本領であった台湾や朝鮮、或いは旧満州国、日本軍占領地の東南アジア各地にも加えられ、現地においても相当の犠牲があったものと推測されています。 以下はアメリカ陸軍航空隊側から見た、死傷者50万人以上、罹災者1000万人以上という日本本土空襲の実態です。
〇第21爆撃機集団による対日都市空襲被害
〇第21爆撃機集団による対日航空機工場攻撃被害
〇第20空軍の原因、機種別戦闘損失一覧
〇第20空軍の爆撃、機雷敷設任務における損害機数