青森県学徒勤労動員抄史

花の蕾の若桜
五尺の命引き下げて
国の大事に殉ずるは
我等学徒の面目ぞ
あゝ、紅いの血は燃ゆる

 

  昭和19年の軍国歌謡「あゝ紅いの血は燃ゆる」の歌詞に言う通り、大正未から昭和の初めに生を受けた戦中派世代の学校生活は、国家と共にあった。
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」との教育勅語が辿り看いた結末は、教育の崩壊でしか無く、太平洋戦争も末期になると、学校は実質的にその機能を失い、全ての学生生徒は、国のため学徒勤労報国隊として、工場や軍施設で労働することを強制された。

 学徒勤労動員に先立つ勤労奉仕が最初に指令されたのは日中戦争勃発直後、昭和12年7月31日付各地方長官宛文部次官通牒「今回ノ北支事変二関シ執ルベキ措置二関スル件」である。この通牒は「派遣応召ノ軍人ノ遺家族ノ実情二応ジ最寄在住ノ生徒児童又社会教育諸団体ヲシテ其ノ生業、家事、通信等二関シ適当二労力奉仕ヲ為サンムルコト」を指示したものだった。
 翌13年1月、中華民国の首都南京は陥落したものの、首都を重慶に移した蒋政権は徹底交戦を展開、日本政府は青年男子の応召を繰返した。その結果、農村の労働人口は激減し、工場労働力も不足の一途をたどった。そこで文部省は、6月9日「集団的勤労作業運動実施二関スル件」を地方長官宛てに通牒、一律に中等学校に対し「夏季休暇ノ始期・終期其ノ他適当ノ時期二於テ概ネ低学年ハ三日高学年ハ五日」集団的勤労動員をさせることを指示した。

 昭和14年、戦争も2年目になると、学校生徒への自覚を促すために、5月22日「青少年學徒ニ賜リタル勅語」が発せられ、「教育勅語」と並ぶ重要な指針とされた。

青少年學徒ニ下シ賜ハリタル勅語

國本ニ培ヒ國力ヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚タ遠シ 而シテ其ノ任實ニ繋リテ汝等青少年學徒ノ雙肩ニ在リ 汝等其レ氣節尚ヒ廉恥ヲ重ンシ古今ノ史實ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長シ執ル所中ヲ失ハス嚮フ所正ヲ謬ラス 各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ氣風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ

 

 戦局が泥沼化するなか、勤労奉仕はさらに強化され、中学校では男子生徒の登下校は、戦闘帽にゲートル。盡忠報國が合言葉となり、軍事教練が重視されていった。昭和16年文部省教育調査部発行「集団勤労作業ノ概況」は15年度の青森県内勤労作業実績を以下のように報じている。

(県立青森中学校での軍事教練)

男子之部    
  参加学校数      一六  
  延人数  
     師範学校  
 中学校 
 実業学校   
 計        
      五〇五八
三八四〇九
三六五三五
八〇〇〇三  
女子之部          
参加学校数             一八   
延人数      八三一六二  
其他之部 
参加学校数              一  
延人数      三一五  
計 
参加学校数                     三五   
延人数   一六三四七九
     
作業種目別学校数調            
  男子    女子    其他
学校内外ノ清掃美化作業        五     七    
開墾作業               五  
農耕作業              一〇     五 
森林作業               九    
土木作業              一〇    
園芸作業                    四    
農畜水産加工作業          
除雪作業               八    
応召家庭農耕奉仕           九    
軍役奉仕               一    
慰問及慰問品製作作業             
神社寺院修理清掃作業         三    一二    
公園道路清掃美化作業         五  一一
河川改修排水工事          
飛行場競技場其他土木作業      
道路建設改修作業           四    
治水作業              
試験場道場其他所属農場作業      二    
製炭作業               五    
飼料増産作業             六     六    
薬草採取                   
廃品回収                   
洗濯裁縫等女子作業              
其他作業               六     四    
調査学校数             一六    一八    

 

 


 

  
















 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和16年になると、物資、とりわけ食糧、家畜飼料の不足が著しくなり、その増産が急務とされた。5月8日「青少年学徒食糧飼料等増産実施運動二関スル件」が通牒され、勤労奉仕は正課に準じて取り扱うこととされ、すべての学校田植えや稲刈り、除草などの作業を30日以内行うことが指示された。(県立青森高女の田植え奉仕)
 

太平洋戦争の勃発により合言葉は「鬼畜米英」となり、多くの学校で英語の授業が廃止され、勤労奉仕の時間に当てられた。
 昭和18年4月17日付け東奥日報が百石町に在郷軍人会、青年団員等1000名の竹槍部隊が結成された事を伝えるなど戦局はますます厳しくなっていった。野辺地町を中心に県下中等学校連合演習が開催された8月14日、青森県は「県下学徒ノ戦時体制ヲ確立シ其ノ総力ヲ結集シテ戦力増強二挺身セシメ献身奉公ノ実威力ヲ培ヒ 至誠尽忠ノ精神ヲ涵養スル」することを目的とした「青森県学徒報国隊組織二関スル件」を通達、以後学徒の勤労奉仕は学校ごとに組織された軍隊編成の報国隊により実施する事となり、次いで8月25日「学徒ヲシテ将来ノ軍務二備へ国防能力ノ増強ヲ図ラシムルト共二必要二当タリテハ直接国土防衛二全面的二協力セシメ或ハ学徒ヲシテ挺身国家緊要ノ業務二従事セシメ其ノ心身ノ錬成ヲ全カラシムルコト」意図した、「学徒戦時動員体制確立要綱二関スル件」を通達、学校報国隊を国土防衛に動員し得るよう整備すること、学徒を食糧増産、国防施設建設、緊急物資生産、輸送力増強などに重点して動員すること、中学校以上の女子学徒に対し看護訓練を強化する事が指示した。これにより食糧増産の為、夏休み返上で勤労作業が実施される、直接国家の労働生産の一環に繰り込まれることとなった。

 「撃ちてし止まむ」「学徒出陣」が合言葉となっていた18年10月12日、戦局の緊迫に応じて学校教育の制度全般を検討再桶する必要が生じ、「教育二関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、昭和19年3月から5年制中学の4年終了生にも上級学校入学資格を付与すること、男子商業学校の工業学校への転換・整理縮小等の方針が定められた。これにより、青森県内の商業学校は工業学校に転換することとなり、19年4月1日青森第二工業学校と改名、商業科の募集を停止した。

 昭和19年1月18日学生生徒を勤労に動員できる期間を一年につき概ね4ヶ月とした「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定されたが、翌2月25日「決戦ノ現段階二即応シ国民即戦士ノ覚悟二徹シ国ヲ挙ゲテ精進刻苦其ノ総力ヲ直接戦力増強ノ一点二集中」する事を目的とした「決戦非常措置要綱」が閣議決定されると、原則として中等学校程度以上の学生生徒は全て1年間必要に応じて随時動員できることなり、女学校卒業者の女子挺身隊への強制加入等の措置も宣言された。3月7日には「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、3月31日学校別に動員方針、期間、出動先の基準を示した「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱二依ル学校種別学徒動員基準二関スル件」が発せられた。これにより動員は通年動員とされ、工業学校は必要に応じて学校を工場化する、女子の学校は工場化してその学校の生徒を動員する等の他、国民学校高等科児童にも「適当ナル作業ヲ選ビ動員スルコト」が求められた。

 青森市では2月15日、県立高女、市立高女、堤橋高女、東奥、山田、技芸1600名による女子挺身隊結成式が市公会堂で「海征かば」の斉唱と共に挙行されている。以後女学校卒業者は続々と、大湊航空廠や三沢分工廠に出動することになるが、出動は県内だけに止どまらず、千葉裁縫女学校では19年4月約30名が神奈川県藤沢市の日本精工株式会社に動員されている。

 4月には文部省に学徒動員本部が設置され、「昭和19年度第一四半期第一次学徒動員割当」として青森県に弘前高校文科237名、理科3年22名、2年18名、青森師範学校262名、中学校男子730名、女子50名、総計1320名の動員が指示され、学徒動員の第一陣として、青森商業5年50名が青森県造船へ出動を命じられることとなった。以後、5月弘前工業学校4・5年生が大湊、三沢航空廠、青森造船鉄工所に、弘前高等学校3年生が中標津飛行場の設営作業に動員される等、全ての学校で上級生から順次各事業所に動員がかけられることとなった。

 6月27日県内政部長、県警察部長連名により、「学徒ノ勤労動員ハ学徒ノ教育実購トシテ行フ勤労協力タル理念二徹シ作業場ヲシテ行学一体ノ道場タラシムルヤウ工夫勘案スルコト」を指示した「青森県工場事業場等学徒勤労動員実施二関スル件」が通達されると、女子学校の可及的な工場化がうたわれた。それは勤労とは名ばかりの強制労働でもあった。

 県内では第一次の指定工場として、陸軍被服廠本廠仙台出張所から県立青森高女と弘前高女の2校が指定され(後に市立青森高女も指定)、青高女では7月22日9教室にミシン百数十台を準備して青高女学校工場を開場、「我等は召されし学徒なり、大詔かしこみて勝利の日まで戦い抜かん」との誓いの言葉が制定されている。(青高女の学校工場)

 7月7日サイパン島守備隊が在島住民とともに最後の攻撃を敢行したことが報道されると、7月28日付け東奥日報は、大湊に動員中の青森商業学校報国隊員が血染めの日章旗に「玉砕勇士に應へん、勝利の日まで」との血書をしたためた事を美談として報じている。

 8月になると、4日青森中学、弘前中学5年に動貞令が下り、初めて県外軍需工場である横浜市日産自動車に出発したのに続き、10日八戸中学が三菱重工川崎製作所、木造中学、野辺地中学、東奥義塾が東京芝浦電気の各工場に動員された。日本砂鉄八戸工場に動員された八戸商業4年生が10月5日から本県最初の深夜作業に入るなど、動員体制は一段と強化され、12月1日には下北郡下国民学校高等科児童に大湊海軍工作部への動員命令が下されるまでとなった。すでに8月23日「学徒勤労令」と「女子挺身隊勤労令」が公布、学徒動員は法制化されていた。
 動員先の大湊航空廠では8月15日青森商業5年角田浩が大湊共済病院で病死、青森造船鉄工所で11月24日弘前工業1年長濱秀三が殉職するなどの悲劇も生じたが、全ては殉国美談に仕立て上げられていった。(青森県造船に動員された市立青森一中生徒)

 絶対国防圏とされたサイパン島を失陥し、本土爆撃、上陸をも想定せざるを得ない状況に追い込まれた大本営はアメリカ軍の上陸点と予期した八戸地区に要塞工事を実施することとし、弘前の留守第57師団は八戸郊外是川村、舘村、島守村に永久要塞の築城を開始した。工事は10月16日から秋田師範学校生が動員されたのを皮切りに、11月から湊国民学校、小中野国民学校の高等科男女による動員を加え、20年1月9日からは秋田師範、岩手師範、弘前高校、青森師範を始め八戸市内の全中学校、国民学校高等科の児童生徒3500名を動員して進められた。男子はもっばら砂利採集、運搬、トーチカ構築、女子はセメント、木材の運搬にあてがわれ、築城は3月末に完成した。

 この間津軽地方に19年暮れから降り始めた雪は史上空前の大雪となり、京浜地区の工場へ石炭を輸送する青森鉄道管理部を直撃した。青鉄は20年1月1日から青中、一中、青商、工業に緊急動員令を下令、青森駅、青森操車場の除雪作業に当てている。
 その降りしきる雪の中、1月19日青森師範は川崎市の東京航空計器への動員生を青森駅から送り出したが、動員は更に強化され、学校に残ったのは一部の動員洩れの病弱者と低学年だけとなった。


 20年3月5日「国民勤労動員令」施行。12歳以下60歳以上の男子、40歳以上の女子、極度の心身障害者を除いて日本国民全ては最低1年に60日以内労働させられる事になった。 3月18日には「決戦教育措置要綱」を閣議決定、国民学校初等科を除いて授業は昭和20年4月1日から1年間原則として停止し、全学徒を食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其他直接決戦に緊要なる業務に総動員することが決定され、「勤労即教育」として学校はその機能を全て停止してしまった。3月28日青森一中では動員先の日本火エ戸塚作業所で第一回卒業式が執り行なわれたが、式場には「蛍の光」の代わりに空襲警報が鳴り響いていた。県内の学徒達が動員された軍需工場はB29の攻撃目標となっており、4月15日川崎市の大日本化学工業に動員中の青森商業4年専攻科白鳥達雄が直撃を受けて死亡、5月25日横浜市の大日本兵器富岡工場に動員された青森中4年船木英二が横浜大空襲で死亡するなど犠牲者も少なくなかった。多くの生徒たちは防空頭巾を被り爆弾の雨を逃げ迷うことになり、工場自体が操業停止となったために動員を解除する工場も出始めた。

 日本各地で空襲が相次いでいた5月22日、「一旦緩急ノ際ハ義勇奉公ノ節ヲ効サンコトヲ」学徒に改めて求めた上諭が附された「戦時教育令」が公布された。これにより学徒の本分は、「尽忠以テ国運ヲ双肩二担ヒ戦時二緊切ナル要務二挺身」することとされ、地方長官を隊長とする学徒隊の結成が定められた。本土決戦、一億玉砕は当然のこととなり、その野戦陣地構築にも生徒が動員されることとなった。5月25日には護弘師団(第157師団)から弘前中、青森中、青森一中、青森商業に動員令が下され、六戸、古間木、五戸陣地の構築に作業、7月18日には再び青森中、青森一中、青森商業に動員が命じられ、下田、古間木、六戸陣地を構築することになった。
 動員に洩れた生徒、低学年生は各学校が経営を義務づけられた学校農場に全て動員され、開墾作業に当てられたが、7月28日青森空襲の結果、青森師範、青森中、県立高女、市立高女、市立二中、青森商業、山田家政、東奥家政、堤橋高女、青森盲唖、師範付属国民学校、千刈国民学校、新町国民学校、浦町国民学校、莨町国民学校、橋本国民学校が焼失。多くの生徒たちが帰るべき場所を失う状態で、終戦の報を聞くことになった。

 8月16日文部省は勤労動員学徒の動員解除の方針を通達したが、食料増産のため農耕への勤労動員は継続されることとなり、これを正規の授業として、その働きを考課対象とした。急激な民主化の波と伴に各学校ではストライキが頻発、学校現場の混乱は暫く続いた。

 


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