戦場において味方の誤射による死は少なくない。しかし、フレンドリーファイアーと呼ばれるその実態は、あきらかにされることはまれである。 本土空襲においても、150名を超える連合軍捕虜たちは、多くの日本人と同様アメリカ軍による空襲下を逃げ惑い、死んでいった。 以下は知られざる、その実態である。
所名 所在地 被災日 死亡捕虜数 仙台俘虜収容所第五分所 岩手県釜石市 昭和20年7月14日、8月9日 32 東京俘虜収容所第二分所 神奈川県川崎市 昭和20年7月25日 22 東京俘虜収容所第十一派遣所 神奈川県横浜市 昭和20年4月15日、7月13日 33 名古屋俘虜収容所第五分所 三重県四日市市 昭和20年7月30日 1 大阪俘虜収容所第三分所 京都府吉津村 昭和20年7月30日 2 大阪俘虜収容所第十三分所 大阪府西成区 昭和20年3月13日 1 大阪俘虜収容所付属神戸病室 兵庫県神戸市 昭和20年6月5日 3 福岡俘虜収容所第三分所 福岡県小倉市 昭和20年8月8日 1 福岡俘虜収容所第十四分所 長崎県長崎市 昭和20年8月1日、8月9日 8 台湾俘虜収容所 13 香港俘虜収容所 14 泰俘虜収容所 60 東京陸軍刑務所 東京都渋谷区 昭和20年5月25日 65 中国憲兵隊司令部 広島県広島市 昭和20年8月6日 11 大牟田憲兵隊 福岡県大牟田市 昭和20年8月8日 1
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