昭和二十年三月十日


 

大本營發表(昭和二十年三月十日二時)


 我佛印駐屯軍は佛印當局の不信に基き印度支那に於ける共同防衞遂に不可能となりたるにより、茲に適性勢力を一掃し單獨にて同地の防衞に任ずるに決し三月九日夜所要の所置を開始せり

 

大本營發表(昭和二十年三月十日十二時)

 本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に來襲市街地を盲爆せり右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎭火せり現在迄に判明せる戰果次の如し

 撃墜十五機
 損害を與へたるもの約五十機

 


1945年1月10日グアムに着任、XXIBCの指揮を採ったカーチス・E・ルメイ少将は、空襲参加機に尾部銃座以外の機銃弾の携行を禁じ、最大限搭載した焼夷弾を高度−8000フィート(1500−2400メートル)で投下することを命令した。陸軍記念日に設定されたこの日の攻撃で、出撃325機中、279機が東京に焼夷弾を投下。以後夜間低空焼夷弾空襲は日本全土にわたって繰り広げられることとなった。

「警視庁消防部三月十日空襲災害状況概要
三月十日ニ於ケル空襲時ニ於テハ特別消防隊一、 消防署四一、署内水上消防署一、、消防自動車喞筒一一〇〇有余台ヲ現有シ各署隊共ニ有事ニ備ヘ待機中ノ処十日午前零時十五分空襲警報発令セラレ数分後B29単機又ハ二、三機ノ小編隊ヲ以テ百数十機帝都上空ニ進入シ各区ニ対シ猛烈ナル焼夷弾攻撃ヲ実施セラレタルニ依リ折柄ノ北風二、三十米ノ烈風ニヨリ発生セル火災ハ益々熾烈ヲ加ヘ殊ニ浅草区方面ノ火災ハ隅田川ヲ越エ本所区、深川区、城東区、江戸川区方面ノ火災ト合流其ノ火勢愈愈猛烈ヲ極メツツアリ
 各署所隊ノ喞筒自動車ハ夫々計画ニ基キ急遽出場必死ノ奮闘ヲ続ケ更ニ都内各消防署ヨリ応援隊二○○台ヲ直チニ出場セシムル一方埼玉 神奈川 千葉ノ各県ヨリ消防自動車喞筒約一○○台ノ応援要請シ神奈川県ノ応援隊ハ日本橋 京橋 芝方面ニ部署千葉ノ応援隊は城東 江戸川 本所各方面ニ部署セシメ埼玉県ノ応援隊 下谷 浅草 神田各方面ニ防禦部署セシメ各隊員何レモ必死ノ敢闘ヲ続行シタルモ折柄ノ烈風ニ加ヘ水利不充分ノ為防禦行動意ノ如クナラズ遂ニ左記ノ如キ災害ヲ被ルニ至リタルモノナリ 尚本火災ハ翌前五時十分頃漸次鎮火ニ傾キツツアリタリ
 焼失戸数並坪数
 焼失戸数 二七六七九一
 焼失坪数 四二三七三四二坪」 

「零時八分(空襲警報発令前)深川区木場二丁目ニ最初ノ空襲火災発生 続イテ本所太平町付近ニ火災発生ス 爾後二分乃至三分ヲ間シテ逐次前記二十五区ヲ数フ大区域ニ無数ノ火災ヲ発生 二時十分頃敵機ノ退去時ニ於テハ火点ノ算定困難トナリ就中本所 深川 城東 浅草 向島各方面ハ全区ヲ包ム大火流ノ状態ヲ呈シ居リタリ」(警視庁消防部消教務第二三一号 二十年三月十八日)

この空襲により本所区、深川区、浅草区はほぼその全域を焼失、東京都全体で83070名の死者、113062名の負傷者、全焼家屋259011戸、罹災者889213名(帝都防空本部情報)の被害を生じた。




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