昭和二十年二月六日


 

大本營發表(昭和二十年二月六日十六時)

敵の一部は二月三日夕北方よりマニラ市の一角に侵入せり。
所在の我部隊は同市内外の要點に占據し、之を邀撃奮戰中なり。


 


  2月3日、アメリカ軍は最初に比島俘虜収容所本所が設置されていたサン・トーマス大学を包囲した。当初、アメリカ軍のレイテ上陸の際俘虜全員の殺害を基本方針としていた第14方面軍は、19年12月末基本方針を撤回、第三国を経由しての全員の開放を指示した。比島俘虜収容所所長代理林寿一郎陸軍中佐(4月末戦死)は、アメリカ軍と交渉、連合軍捕虜4851名全員を解放、収容所職員と共にマニラ東方の陸軍陣地に帰着した。

フィリピン作戦の指揮を執る山下奉文第14方面軍司令官は、マニラ市を撤退、ルソン島北部拠点に移動していたが、海軍マニラ防衛部隊(岩淵三次少将)は徹底交戦を実施、一ヶ月に亘る市街戦が展開された。

 

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