昭和十九年十一月十一日


 

大本營發表(昭和十九年十一月十一日十五時二十分)

在支米航空部隊はB29八十機内外を以て本十一月十一日十時頃九州西部及濟州島に來襲、雲上より盲爆の後遁走せり
我方の被害輕微なり

 

大本營發表(昭和十九年十一月十一日十六時三十分)

 
 五月下旬中支那方面より次で六月下旬南支那方面より夫々作戰を開始せる我部隊は十一月十日十時柳州を同十二時桂林を完全に攻略し該方面に於ける米空軍基地群を覆滅、支那大陸に於ける優位なる戰略態勢を獲得せり
 
 同方面作戰の陸軍部隊最高指揮官は陸軍大将岡村寧次、海軍部隊最高指揮官は海軍大将近藤信竹、中支那方面の陸軍部隊指揮官は陸軍中将横山勇、南支那方面の陸軍部隊指揮官は陸軍中将田中久一、海軍部隊指揮官は海軍中将副島大助にして陸軍航空部隊の指揮官は陸軍中将下山琢磨なり

 


 

 

 

 

大本營發表(昭和十九年十一月十一日十七時三十分) 

大元帥陛下には本日大本營幕僚長を召させられ支那派遣軍總司令官及支那方面艦隊司令長官に對し次の勅語を賜はりたり
勅語
中支那方面ニ作戰セル軍ノ將兵ハ約半歳ニ亘リ至勤ナル機動作戰ヲ敢行シ瘴癘ヲ昌シ艱苦ニ堪ヘ隨處ニ在支米空軍ノ根據ヲ撃摧シテ克ク作戰目的ヲ達成シ以テ全局作戰ニ寄與セリ
朕深ク之ヲ嘉尚ス

 

 

 

 

 


支那派遣軍は、日本本土空襲に使用される恐れのあるアメリカ空軍の航空基地を攻略し、本土防衛を全うするため一号作戦(大陸打通作戦)を発動、桂柳地区の飛行場を占領したが、在中国アメリカ空軍による北九州空襲はその日も続いた。アメリカ空軍の主力第21爆撃機集団はすでにサイパン島に展開を終えており、以後、マリアナ基地からの本土空襲が本格化、一号作戦の本来の目的は無意味な物となった。

 第六方面軍司令官岡村寧次大将は、昭和13年6月第十一軍司令官として武漢三鎮を攻略。その後第六方面軍司令官として大陸打通作戦の指揮を執り、19年11月23日支那派遣軍総司令官となった。戦後台湾に敗走した蒋介石軍の軍事顧問として台湾軍を養成した。
 支那方面艦隊司令長官近藤信竹大将は、軍令部次長等を勤めた後、第二艦隊司令長官としてミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加した。
 第十一軍司令官として桂柳作戦の指揮をとった横山勇中将は19年11月西部軍司令官、20年2月第16方面軍司令官となり、本土決戦の指導をおこなった。戦後の横浜裁判でB29捕獲搭乗員殺害事件の責任を問われ、死刑判決。巣鴨刑務所で服役中病死した。
 第二十三軍司令官の田中久一中将は19年12月香港占領地総督を兼務、22年3月27日刑死した。
 第二遣支艦隊司令長官副島大助中将は横須賀鎮守府参謀長、広東方面根拠地隊司令、海軍水路部長等を歴任した。
 第五航空軍司令下山琢磨中将は第四飛行師団長、第二飛行師団長、第三飛行師団長を歴任、19年2月第五航空軍司令として中国大陸から飛来するB29に備えた。

 

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