昭和十九年七月十八日

大本營發表(昭和十九年七月十八日十七時)  

一、「サイパン」島の我が部隊は七月七日早曉より全力を擧げて最後の攻撃を敢行所在の敵を蹂躙し其の一部は「タポーチョ」山附近迄突進し勇戰力鬪敵に多大の損害を與へ十六日迄に全員壮烈なる戰死を遂げたるものと認む
同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将齋藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして同方面の最高指揮官海軍中将南雲忠一亦同島に於て戰死せり

二、「サイパン」島の在留邦人は終始軍に協力し凡そ戰ひ得るものは敢然戰鬪に参加し概ね将兵と運命を共にせるものの如し

  

7月7日午前3時半サイパン島守備隊は一般住民とともに最後の攻撃を敢行、玉砕した。米軍上陸以来、陸軍約26000名、海軍約15000名の他在留邦人10000名が死亡した。

中部太平洋方面艦隊司令長官訓示
「サイパン島の皇軍将兵に告ぐ。米軍進攻を企圖してよりここに二旬餘、全在島の将兵及び軍属はよく協力一致、善戰敢鬪、随所に皇軍の面目を發揮し負荷の重任を完遂せんことを期せり。然るに天の時を得て、地の利を占むる能はず、人の和を以て今日に及びたるも、今や戰ふに資材なく、攻むるに砲類悉く破壊し、戰友相次いで倒る。無念七生報復を誓ふ暴虐なる進攻依然たり。サイパンの一角を占領すると雖も熾烈なる砲撃下に散華するにすぎず、今や『止まるも死、進むも死』生死須らくその時を得て帝國男子の眞骨頂あり。今や米軍に一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く生きて虜囚の辱めを受けず勇躍全力を尽くして従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。茲に将兵とともに聖壽の無窮皇國の彌榮を祈念すべく敵を索めて發進す
膾後¢

昭和十九年七月  南雲中将」

18日東條内閣総辞職。

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